韓国はなぜ分断国家になったのか
朝鮮半島が日本の植民地支配から解放された1945年8月15日から大韓民国が成立した1948年8月15日までの3年間に、果たして何が起こったのか。朝鮮半島が南北に分断されていく過程を振り返ってみよう。
アメリカとソ連の対立
太平洋戦争で日本の敗戦が濃厚になった1943年11月、連合国側のアメリカ、イギリス、中国の3首脳はカイロ会談を行なっている。それは、日本の戦後処理を話し合うものだったが、その中で「朝鮮人民の奴隷状態に留意して、朝鮮を自由・独立させる決意を有する」と宣言された。これがカイロ宣言だ。
朝鮮半島を独立させるという決意は、その後のポツダム宣言においても再び確認されている。日本の敗戦後には、勝利した連合国側の意向によって、朝鮮半島の独立は約束されていたのだ。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言の受諾を正式に表明した。その日は、朝鮮半島にとって1910年以来の植民地支配から解放された日だった。今でも韓国で一番重要な祝日になっている。
日本の敗戦によって、朝鮮半島の人々は新しい国家が樹立できるものと信じて疑わなかった。しかし、カイロ宣言にもかかわらず、アメリカとソ連の間で深刻な対立が起こって事情が変わってしまった。
ソ連は日本の敗戦直前の8月8日に対日宣戦を布告して軍隊を朝鮮半島北部に向かって進めた。8月22日には平壌(ピョンヤン)にソ連軍が入っている。
一方、朝鮮半島南部にはアメリカ軍が進軍。朝鮮半島は北部にソ連軍、南部にアメリカ軍が駐留することとなった。
その当時、朝鮮人民はどのような動きをしていたのか。
大国による信託統治
植民地支配から解放された8月15日の当日には、独立運動を主導した有力者を中心にして朝鮮建国準備委員会が組織された。彼らは、9月6日には朝鮮人民共和国の樹立を宣言したのだが、実体がともなっていなかった。すでに、38度線を境界として「南側にアメリカ軍、北側にソ連軍」という分割占領策が始まっていたからだ。
それは、独自政府を熱望する朝鮮人民の気持ちを否定するものだった。
12月27日、アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国がモスクワで外相会議を開き、朝鮮半島を5年間にわたって共同信託統治にすることを決めた。
これがモスクワ宣言である。
一方的な信託統治に対する朝鮮人民の怒りは大きかったが、その一方で、植民地時代に独立運動で名を馳せた有力者の間でも志向の違いが顕著になった。
特に、植民地時代に満州との国境付近を根拠地にパルチザン活動を行なった金日成(キム・イルソン)と、主にアメリカで独立運動を続けて解放後に帰国した李承晩(イ・スンマン)は、めざす方向がまるで違った。結果的に、左派と右派の対立が深刻になっていった。
1946年2月8日、平壌で北朝鮮臨時人民委員会が発足した(後に正式な北朝鮮人民委員会となった)。委員長は金日成だった。
すかさず、2月14日には南朝鮮に大韓民国代表民主議院が設立された。李承晩が議長となった。
いずれにしても、金日成の後ろ楯はソ連であり、李承晩はアメリカの軍政に支えられていた。両者は米ソの意向に逆らうことはできなかった。
国連の決議
朝鮮半島が南北に分裂していく中で、アメリカとソ連はソウルで二度にわたって共同委員会を開いた。その場で、アメリカとソ連の意見がまったく異なっていた。アメリカは、すべての政治団体の参加を許して統一臨時政府を樹立することをめざした。一方のソ連は、信託統治に賛成する政治団体だけで臨時政府を作ろうとした。そんな両国の対立は解消されずに共同委員会は決裂してしまう。
そこで、アメリカは朝鮮半島の独立問題を国連総会に提議した。
1947年11月14日、国連は「監視のもとで朝鮮半島で選挙を行ない、独立した政府の樹立をめざす」と提案した。ソ連は北朝鮮での影響力を失うことを恐れて反対したが、提案は絶対多数で可決された。
1948年1月9日、北朝鮮人民委員会は国連の臨時委員会が朝鮮半島北部に入ってくることを拒否した。それは、ソ連の意向に沿った措置だった。
これによって、北朝鮮で選挙を行なうことが難しくなってしまった。
国連は仕方なく、選挙ができる地域だけで先に行なって独立した政府を樹立しようという決議をした。
結果的に、その決議が朝鮮半島の分断を誘導してしまった点は否めない。
2つの政府
単独選挙には南朝鮮でも反対が多く、4月3日には済州島(チェジュド)で武装蜂起が発生し、多くの島民が虐殺されてしまった。これが「4・3事件」である。
さらに、独立運動の闘士で人望があつかった金九(キム・グ)も「朝鮮半島南部だけで選挙を行なうことは分断の固定化を招く」と考え、統一した政府の樹立に尽力した。北朝鮮にまで出向いたのだが、結局は失敗に終わり、後に金九は暗殺されてしまった。
国連の監視下で、1948年5月10日に朝鮮半島南部だけで総選挙が行なわれた。その結果を受けて国会が開かれ、憲法を制定する作業が進み、「親米」「反共」を鮮明にしていた李承晩が大統領に選出された。そして、1948年8月15日に大韓民国の樹立が宣言された。
記念式典の演説で李承晩はソ連を強く非難した。
大韓民国の成立を受けて、北朝鮮も素早く動いた。
金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が9月9日に成立した。
金日成は大韓民国の成立を激しく批判して、祖国統一を第一の目標にすることを宣言した。
こうして朝鮮半島は、お互いに正統性を主張する2つの政府によって分断され、それが後の朝鮮戦争という悲劇につながってしまった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
康 熙奉(カン ヒボン)
1954年東京生まれ。在日韓国人二世。韓国の歴史・文化や日韓関係を描いた著作が多い。特に、朝鮮王朝の読み物シリーズはベストセラーとなった。主な著書は、『知れば知るほど面白い朝鮮王朝の歴史と人物』『朝鮮王朝の歴史はなぜこんなに面白いのか』『日本のコリアをゆく』『徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか』『ヒボン式かんたんハングル』『悪女たちの朝鮮王朝』『宿命の日韓二千年史』『韓流スターと兵役』『朝鮮王朝と現代韓国の悪女列伝』など。最新刊は『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』。
※韓流サイト「ロコレ」に定期的に記事を書いています。