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韓国の基本情報

 
 
■ 韓国の歴史
 古朝鮮
韓半島(朝鮮半島)とその周辺地域には、約70万年前から人が住み始めました。新石器時代は約8000年前に始まり、当時の遺跡は韓半島全域にわたり、主に大きな川の流域や海岸地域で発見されています。

現在のモンゴル国と韓半島では、紀元前2000年~紀元前1500年ごろに青銅器時代が始まりました。青銅器文化が形成され、満洲遼寧地方と韓半島西北地方には族長(郡長)が治める多くの部族が現われました。檀君(タングン)はそれらの部族を統合して、古朝鮮を建国(紀元前2333年)しました。檀君の古朝鮮建国は、韓民族の歴史の長さを物語っています。この遺産は、韓民族が困難な時代を乗り越える力を授けた自尊心の源にもなっています。

 三国時代と加耶(5世紀)
部落は次第に複雑な政治的構造を持つ部族社会を形成し、中央集権国家に成長していきました。
多くの部族連合の中で最初に王国を形成したのは、鴨緑江(アムノッカン)の中流域に領地を定めた高句麗(コグリョ、紀元前37~紀元後[西暦]668年)です。

廣開土大王(クァンゲトデワン、在位:391~413年)と長寿王(チャンスワン、在位:413~491年)が始めた征服戦争の結果、高句麗は満州地方と韓半島の広大な領土を確保しました。その後、中央集権的な政治体制を確立し、強大な国家を形成しました。
現在のソウルの近くの漢江(ハンガン)南部にあった部族から発展した百済(ペクチェ、紀元前18~西暦660)も、高句麗と同じように、古代国家を形成しました。百済は、近肖古王(クンチョゴワン、在位:346~375年)の時代に中央集権国家に発展しました。

新羅(シルラ、紀元前57~西暦935年)は韓半島の南東部に位置していましたが、当初は、三国の中で最も、発展が遅れていました。しかし、地政学的に中国の影響が少なく、中国以外の習慣や思想に対してより開放的でした。新羅は厳しい階級社会で、上層階級は当時の先進文化である仏教の教えを積極的に取り入れ、また「花郎(ファラン)」と呼ばれる青年貴族の軍隊を形成しました。
伽耶(カヤ、42~562年)は洛東江下流域の複数の部族が集まり、連盟体の形態で始まりました。

 統一新羅と渤海(8世紀)
新羅は6世紀半ばまでに、隣接する伽耶連盟の小国をすべて支配下に置きました。 また、新羅は、唐との軍事関係を構築し、660年に百済を、668年には高句麗を支配下に置きました。韓半島の統一は、公式には、新羅が676年に唐の侵略軍を退けた時に成し遂げられました。
新羅が国力や繁栄といった点で最盛期を迎えたのは8世紀半ばで、理想的な仏教国の確立を目指しました。壮大な仏国寺(プルグクサ)が建立されたのは統一新羅時代です。

698年、高句麗の遺民が満州の中南部に渤海(バルヘ)を建国しました。渤海には、高句麗の遺民だけでなく、多くの靺鞨(まつかつ)人もいました。
渤海は、高句麗の行政構造をモデルにした統治制度を構築しました。また、その進んだ文化も、高句麗の文化を土台とするものでした。

渤海は、北はアムール川、東は満州中南部の開原に至る広大な領地を支配し、9世紀前半には繁栄の最盛期を迎えました。突厥や日本とも外交関係を構築しました。しかし、渤海は926年、契丹に滅ぼされてしまいました。渤海の貴族たち、そのほとんどは高句麗の子孫ですが、彼らは南下し、新たに建国された高麗(コリョ)王朝に入りました。

 高麗王朝(11世紀)
高麗(918~1392年)は、統一新羅に反旗を翻して乱を起こした弓裔(クンイェ)の臣下だった王建(ワンゴン)によって建国されました。王建は、生まれ故郷の松岳(現在の北韓[北朝鮮]・開城)を都に定め、中国北東部で失った高句麗の領土を取り戻すことを宣言しました。

王建は国名を「高麗」としました。韓国の英語名「コリア」はこの「高麗」に由来しています。高麗は、高句麗の領土を取り戻すことはできませんでしたが、青磁や青緑色の青磁、仏教の伝統に代表される優れた文化を発展させました。その文化的業績の一つとして、1234年に、ドイツのグーテンベルグの聖書より200年も早く世界で初めて金属活字を発明したことが挙げられます。また、当時、韓国の熟練した職人が、仏教の経典を木版でつくるという困難な仕事を成し遂げました。

これら8万個を超える木版は、モンゴルの侵略者を撃退するために、仏教の力を引き出すことを目的としていました。

 朝鮮王朝(15世紀)
1392年、李成桂(イ・ソンゲ)将軍が朝鮮(チョソン)を建国しました。朝鮮時代初期の国王は、高麗時代の仏教の支配的な影響を抑えるため、儒教を王朝の基本理念として積極的に支援しました。
朝鮮の国王らは、バランスのとれた政治体制によって王朝を統治しました。国の官吏を採用する国家試験である科挙制度を通じて優秀な人材を選抜し、この制度は朝鮮時代の社会的流動性や知識活動の重要な柱となりました。しかし、儒教志向の社会は、学問を極めて重視する一方で、商業や工業は軽視していました。

朝鮮の第4代国王・世宗大王(セジョンデワン、在位:1418~1450年)の時代には、前例のない文化・芸術の黄金期を迎えました。世宗大王の指導の下、学問研究所「集賢殿」の学者たちが、韓国の文字「ハングル」を創製しました。ハングルは当時、国民に正しい音を指導するという意味合いで「訓民正音」と呼ばれていました。 また、天文学に対する世宗大王の関心は広範囲に及び、日時計や水時計、天球儀、天体図などが作られました。
第7代国王・世祖(セジョ、在位:1455~1468年)は、国家の統治体制を合理化する取り組みの一環として法制度を整備し、政治の基準になった法典「経国大典」を編さんしました。朝鮮王朝の統治体制は、公式には、成宗(ソンジョン、在位:1469~1494年)時代の「経国大典」の完成によって確立されました。

1592年、日本は中国侵略への道を開くため韓半島に侵攻しました。しかし、海戦では、韓国の歴史上、最も尊敬されている人物の一人、将軍・李舜臣(イ・スンシン、1545~1598年)は、世界初の鉄甲船とされる「亀甲船(ゴブクソン)」を配備するなどして、一連の戦いで勝利を収めました。

17世紀初め、近代的な国家建設の手段として、「実学」を支持しようという運動が、リベラルな学者や官吏の間で活発になりました。
彼らは、土地分配の抜本的な改革による農業と産業の再編成を強く提言しました。しかし、保守的な役人たちは、そのような急進的な変化を受け入れる準備がまだできていませんでした。
朝鮮時代後半になると、朝廷の権力を巡り支配階級の間で派閥争いが繰り返されるようになりました。そのような派閥争いをなくすため、第21代国王・英祖(ヨンジョ、在位:1724~1776年)は、「蕩平策」という政治的なバランスを取る政策を打ち出すとともに、王権を強化し、国政の安定を図りました。

第22代国王・正祖(チョンジョ、在位:1776~1800年)は引き続き蕩平策を実施する一方、王室の図書館「奎章閣(キュジャンガク)」を設け、王室の書類や記録などを保管しました。また、他の政治・文化改革にも着手しました。この時代は実学が花を咲かせた時期といえます。数多くの優れた学者が、農業や工業の改革を求める斬新な改革案を提言しましたが、彼らの考えは政府にほとんど受け入れられませんでした。

 日本の植民地支配と韓国の独立運動
日帝は植民地統治をしながら朝鮮の資源を奪い、固有の言語や文字、名前まで変更するよう強要しただけでなく、韓国人を帝国主義戦争の労働力と軍事 力として強制動員しました。こうした中、韓国人は国内外で国権回復のため の熾烈な闘争を続けました。国内では独立義軍部や朝鮮国権回復団、大韓光復会など多くの抗日結社を組織して対抗し、中国・ロシア・アメリカなどに 独立運動の拠点を設けました。また、世界に類のない平和的な独立デモも展 開しました。
それは、1919年3月1日に独立宣言書を発表し、全国で学生と市民が万歳 デモを行った3・1運動です。この運動は満州、沿海州、アメリカ、日本、ヨー ロッパまで広がりました。3・1運動の後、ソウルに漢城政府が、沿海州には大 韓国民議会が、上海には大韓民国臨時政府が樹立されました。その中でも臨時 政府は近代的憲法と三権分立体制を備えた韓国初の民主共和制政府でした。

これと共に本格的な武装独立戦争が展開され、1920年代には30あまりの独 立軍部隊が満州と沿海州一帯で活動しました。1920年6月に洪範図(ホン・ボム ド)が率いる大韓独立軍が中国吉林省で日本軍を大敗させた鳳梧洞(ポンオドン) 戦闘や、1920年10月に金佐鎮(キム・ジャジン)が率いる北路軍政署と複数の連 合部隊が満州の和龍県で日本軍を壊滅させた青山里(チョンサンリ)戦闘などが 代表的な独立戦争です。

一方、大韓民国臨時政府は満州地域の独立軍と分散していた武装闘争組織 を集め、1940年に重慶で韓国光復軍を組織しました。
臨時政府は日本に宣戦布告をした後、連合軍と共同でインドとミャンマー 戦線に参戦しました。アメリカと協力して特殊軍事訓練を受けた韓国青年要員 が、国内進攻作戦も準備しました。1945年8月15日、韓国人が粘り強く独立闘 争を行い、また第2次世界大戦での連合軍の勝利に力づけられ、韓民族は光復 を迎えました。しかし、韓半島は日本軍の武装解除のために、米軍とソ連軍が 38度線を境に韓半島の南と北に駐留することになり南北に分断されました。

  大韓民国の建国
第二次世界大戦における日本の敗北は韓国に自由と喜びをもたらしました。しかし、それもつかの間の喜びでした。解放は、韓国国民が必死に戦って求めてきた独立を即座にもたらすものではありませんでした。逆に、冷戦によって生じたイデオロギーの違いによって国が南北に分断してしまいました。独立国家樹立に向けた国民の努力は、米軍が韓半島の南半分に駐屯し、ソ連軍が北の支配権を得たことで打ち砕かれました。

1947年11月の国連総会で、国連委員会の監視のもとで総選挙を行なうことを求める決議が採択されました。
しかし、ソ連は、同決議に従うことを拒否し、また、韓半島北側への国連委員会の入国も拒否しました。そこで国連総会は、国連委員会が立ち入り可能な地域での選挙を求める決議を新たに採択しました。1948年5月10日、韓国で初めての選挙が、38度線以南の地域で実施されました。この38度線を境に韓半島は南北に分断されました。

1948年、大韓民国の初代大統領に李承晩(イ・スンマン)が選ばれました。一方、38度線以北では、ソ連の支援で、金日成(キム・イルソン)指導下の共産主義体制が敷かれました。
1950年6月25日、北韓は宣戦布告なしに韓国を奇襲攻撃しました。これによって、米軍、中国軍、その他の国々の軍隊も参加させる3年間の戦争に突入してしまいました。韓半島全土がこの戦争によって大きな打撃を受けました。その後、1953年7月に休戦協定が締結されました。
李承晩大統領は、歴史的貢献があったにも関わらず、長期集権や不正選挙に対した学生運動により1960年失脚されました。

1963年就任した朴正熙大統領は経済発展に力を入れ、1960年代以降の韓国の成長志向・輸出主導の経済発展は目覚ましく、1970年代には「漢江の奇跡」とまで言われました。朴正熙大統領は18年間執権しましたが、1979年暗殺されました。 その後、軍人出身の全斗煥大統領が就任、1987年に行われた国民の直接選挙により, 盧泰愚大統領が就任しました。
1988年には第24回のオリンピックがソウルで開催され、また、2002年には韓日共催サッカーワールドカップが開催されました。
2012年にはG20ソウルサミットを開催し、韓国は国際貿易・交流の拡大を通じて、その豊かな文化遺産や現代の科学技術を世界に実証しました。

そして、2017年5月9日行われた大統領選挙で、第19代大統領として文在寅候補が当選しました。文在寅大統領は2017年5月10日就任し、「公正で正義の大韓民国をつくる」という新たな時代のパラダイムを提示しました。

1950年代は大韓民国は世界でも最も貧しい国の一つでしたが、この間模範的な自由民主国家、経済大国へと発展し、いまや影響力のある経済大国の一つにまでなってきた過程は、人類歴史の奇跡であると言えるでしょう。

大韓民国は、成熟した民主主義への道を確実に歩み、政治的・経済的な自由を実現してきました。
韓半島には冷戦の影響がいまだに残っており、また世界的な経済危機の影響も受けていますが、注目すべき回復を見せし、なおかつ明るい未来を構築するととももに韓半島に恒久的な平和体制を構築し、また、北韓との共同繁栄を推進していくために全力で取り組んでいます。
〔資料出所:Korea.net〕